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■Australia-Sydney-1985
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■1985.6月-生活の全てのシーンが、一生涯忘れられないほど光り輝いていたQueensland州を離れ、車でSydneyを目指した。率直なイメージでいうと私の目にSydneyは少し寒く淋しい印象を残した。もし、私が訪れた最初の地があくまでも陽気なQueenslandではなく、このSydneyだったとしたらそうは感じなかったのかも知れない。オーストラリアに来る前は終冬の東京に住んでいたのだから”淋しい”という印象では残らなかっただろう。
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■Queenslandでの印象は、その土地柄だけでなく当然そこで知り合った人達や、日常繰り返す生活パターンでお伽噺のようにイメージ付けられた訳だが、Sydneyでも私は新たにたくさんの人と出会い、新しい生活パターンをかたち作ることになった。Sydneyに着いたばかりの頃はもちろん知り合いもおらず仕事もないためしばらく『車上生活』を送った。実は一度Brisbaneで一緒だった女の子を頼って彼女のフラットに行ったのだが、彼女も新しい生活を求めてSydneyに流れてきている。…体よく断られてしまっている。残り少ないサイフの中味は僕に『仕事を探せ』と、読むのに苦痛を伴う新聞を開かせ、『share-mate募集』の広告や『wanted-(job)』いった広告を読ませた。 ただの18歳だった、ストリートのカフェあたりでこっちに住んでいそうな日本人を見つけては友達になる位のことはしたが『あの…、住むところ探してるんですけど…』とはなかなか言えず、続住居不定の状態で警察に怯えながらの車上生活は続く。 …そんなあがきの時期に偶然にKingscrossの公園で兄貴を見かけた。
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■Sydneyでの生活は兄貴(実兄)とその仲間たちとの関わりの中で基盤ができていった。相変わらずの日本人社会だったが、ここで逞しい外国人(日本人や韓国人)と過ごせたのは後々の4年間の基盤となっている。日本人パブに始めて行ったのもこの頃で、毎晩みんな元気に飲んでいた。
エリザベス・ベイの兄貴達の1ルームフラットには4人の日本人が住み、毎日のように多くの日本人が訪れた。…常時7人くらいはいただろう。おかしな話しだがここに出入りする日本人は、柔道、拳法、空手、弓道、銃剣道と、武道の有段者が多く、一度みんなで段を合わせてみたら30段を超えたことがある。8畳程のスペースに合わせ30段の猛者の集団…。こんなところに入ったら強盗だってたまったもんじゃなかっただろうと思うと笑いがこみ上げてくる。
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■ひと月ほど居候をして私はグローブという移民の街にギリシャ人とのシェアフラットを見つけ引っ越した。…引っ越してしばらくは毎日毎食スゥイートポテトだけで凌いでいたが、完全にサイフの中味が切れる前になんとか仕事も見つけることができた。
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