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■Australia-Brisbane-1985
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■東京の3月はまだ寒さが厳しく、成田に向かう僕はブーツにジーンズ、Tシャツにパイロットジャンバー
を着込んでいた。愛着たっぷりだった250ccバイクは友達に預け仕事もやめ、住処も引き払っていたので
もう東京に置き忘れた気掛かりは何もなかった。…もともとごちゃごちゃと物を持つのは好きなほうでは
なかったが、ベットやテレビなどの家財道具を処分して、これから始まる生活に必要な物…と、考えると
荷物は辞書に参考書、多少の衣服に金とパスポート。それと愛用のサングラスだけになった。
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■南半球は当然北半球にある日本と季節が逆転することになる。キャセイパシフィック航空の飛行機に
ゆられて香港を経由しオーストラリアのクイーンズランド州の州都ブリズベンを目指し、空港に降り立った
時に感じたのはその『季節が逆』ということだった。すでに飛行機のタラップに向かう時点で窓から見えた
大地の灼ける熱気が機内にまで伝わってくる。…パイロットジャンパーはしばらく必要なさそうだった。
昨日までの都会の冬が姿を消し、灼熱の大地が眼前に広がり、…そこから僕の放浪の旅は始まった。
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■ダウンアンダーと呼ばれる国のブリスベンという街での新しい生活がはじまった。
住むところは日本領事館の人に日本人フラットを紹介してもらった。…もちろん英語を勉強したい気持ちも
あり、環境は日本人から離れたものにしようと思っていたが、まるで何をどうしていいのかわからない
状態だったので、ここで日本人のコミュニティに入りオーストラリアのことや英語の基礎みたいなものを
学べたのは良かった。…もし、このステップがなければ訳がわからないまま、わずかな期間で日本に帰って
しまう判断をしてしまったかもしれない。
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■このフラットでの生活はとても楽しいものだった。見ること聞くこと全てが驚きの連続だった。
シェアといって赤の他人同士が共同生活をするシステムや給料が週給制であること、車の免許に顔写真が
ないこと、試験そのものがいきなり路上で行われること…。生活リズムだけとっても日本の様に仕事中心
ではなくプライベート中心で、根っからの日本人体質の僕は毎日時間をもてあまし、バスであちらこちら
うろうろしたりモールでたむろしたり、知り合った人の家に遊びにいったりして日々を過ごした。もちろん
仕事もしていたが一日わずか3〜4時間、週3〜4日皿洗いをするだけであまり無理せず暮らしていけた。
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■シェアメイトは多いときで7人いたが皆仲がよく、ブリスベンにいる期間にはよく近隣の都市に
泊りがけのドライブにでかけた。(都市と入ってもみな歩いて1時間ほどで見て回れる様なところが
多かったが…)マーケットに行くときもぞろぞろ出かけ、7人分の大量の食料や生活必需品を買い込んだ。
ビールやワインもよく飲んだ。当時ビールがカートン(ケース)で買うと一本あたり70セント位だったし
4リットル入りのカスクワインが4ドルしなかった。たばこも30本入のピーター・ジャクソンが1ドル50セント
くらいだった。(ちなみにたばこはその後1年間で恐ろしいくらい値上がりしていく…)
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■みんなワーキング・ホリデーというビザでオーストラリアに来ていたというのも理由だが、シェアメイトは
頻繁に入れ替わった。そしていろんな人がいた。歯科医もいたし車の整備士もいた。僕は洋食のキッチンに立って
いたし、証券会社のOL、学生、既婚の男性、などなど様々な人達が様々な理由でオーストラリアに来ていた。
語学のためにとか、海外に憧れてというのは一般的だったと思うが本格的に海外を流れまくっているヒッピー
みたいなひともいたしサーフィンを思いっきりやりたいという理由の人もいた。…今ならわからないでもないが
その当時19歳だった僕にとって滑稽に思えたのは『男と別れて人生をやり直したくなった』というものだった。
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